
2003 Montpellier/France
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本日夕方、JR本八幡駅前で20代の女性が刃物で刺されて死亡する痛ましい事件が起きました。
地元の駅なので、知人が巻き込まれてはいなかったにせよ、後味は非常に良くないです。
犯人は殺害された女性の元彼らしいですが、何故に殺すまでになったのか。
元彼が異常なのか、それとも彼女が酷い女だったのか、
どういう理由かはわかりませんが、きれいに別れるのは難しいとしても、
こういう最悪の状況を避けられるようなかたちでおさめて欲しいものです。
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インテリアについて
インテリアやデコレーションなどを含む、空間演出には関心はありますが、
友達でも来ることがなければ、基本無頓着になってしまいます。
空間の大切さはここ1、2年で強く感じるようになったので、少しずつですね。
パリの友人は高価なデザイナーズ家具を使用するのでもなく、
安価なものを工夫して、自らの手であたたかみのある、
センスの良い洒落た部屋に仕上げていたのが印象的です。
インテリアに拘ると費用がかかると思い込みがちですが、
実はそうではないということを教わりました。
これはファッションも同じです。
センスが良い人は金の力を借りる必要がないんですね。
今まで欧州やアジアの国々で、色々な部屋を観れる機会がありました。
好きだった部屋を思い出してみると、
共通するのは、あたたかみのある有機性、
そして、そこに住む人が何を大切にしているかが感じられる空間でした。
ポストモダンでミニマムなデザインも大好きですが、
別荘ならともかく、長期で住むとなると話は別のようです。
buna
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以前にもここに書いたような気がしますが、
“色々考えてそうで考えてない”と自分の手相には出ているらしいです。
たぶんその通りで、感覚的に生きている部分が多く、
考えるときは集中して考えて、これ以上考えても意味がないと思えるまで考えて、
また感覚的なところに戻っているような気がします。
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一つ一つ大事に
山や森の中を歩いていて、
突如目の前に現れた巨大な岩の迫力に圧倒されることがあります。
何か力のようなものが、そこにはあるんだろうな。と。
そのくらいにしか今までは考えていませんでした。
それが今回は当たり前と言えば当たり前のことですが、
こんなことを考えました。
二つ以上の力が衝突、または出会うことでそれが迫り上がりそれが岩場だったり、
山になるのだしたら、そこには摩擦なり圧力が生まれる筈です。
その力に人間は引き寄せられ、力を得るのではないかと。
俗にいう“パワースポット”でしょうか。
そして、思考はそこを経由して絵に移ります。
一つの点や線は人間の手などを動かすなどした、
エネルギー活動の結果にうまれるものです。
それらを繋げたり、重ねることで、何かが生まれて、人の心を惹き付けます。
なので、絵を描く際には、あの山々で見た迫り上がった岩たちを思い出しながら、
一つ一つ大事に紙に落とさなきゃな。とそんな風に思うようになりました。
buna
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連日山の話になりますが、
今回はたまたま最近好きなMoving Mountains(動く山々)というバンドについてです。
このバンドは日本ではまだ知られていないようで、
検索しても以前自分が書いた記事しか日本語の情報がありません。
このバンドの音楽を聴いていると、無意識に押さえ込んでいた感情か何かが溢れてきて、
胸が締め付けられるのですが、不思議と心地よいのです。
心理学で言われるカタルシスかもしれません。
カタルシスとは無意識の内に抑圧されている、過去の苦痛や恐怖や罪悪感をともなう体験を、
第三者や自己によって言語化やビジュアル化されたものを体験することで浄化されることを言うようです。
その溢れてきている何かがまだ客観視できていませんが、
このバンドの何枚かのアルバムを延々とリピートして
それを絵に注ぎ込んでいます。
新譜の試聴は以下でできます。
buna
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急遽兄に誘われて行って来ました。東京の御嶽山へ。
前日ギリギリまで胃腸が弱っていたので、一度は諦めたのですが、
友人が初登山の準備を既にしていたこともあり、なんとかなるだろうと。
今回色々な発見があって、一度にそれを書くのは難しいので、
時間をみつけて少しずつ書いていけたらと思っています。
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歩く歩く歩く
歩行禅というものがあるのは知っていましたが、
その効果を感じたのは記憶を辿ってみても、今回が初めてだったかもしれません。
延々と歩き続けて、制作のことや仕事のこと、プライベートなことなどなど、
歩くリズムに合わせて、頭の中を巡り巡り、ある時から無の境地に到達することができます。
一度そこに到達すると、次々とひらめきがおき、
そして思考が整理され答えを得ることができるのです。
以前、ある人が「無意識の状態で出た答えに間違いはない」と言っていて、
あまり理解できなかったのだけれど、やっと少しわかってきたように思います。
そして、脳が覚醒されたのか、白昼夢を見ているような感覚がまだ続いていて、
この状態で絵を描いたら、良いのが描けそうです。
良い週末を!
buna
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ドクロをモチーフにした作品を観る度に、この人は何故にそれを選んだのだろう。
とある種の気持ち悪さがありました。ストリートっぽいからとか、悪ぶりたいから。とか。
そういうくだらない理由なんじゃないかと。
でも、きっと本人が気づいていないところで、「死」や「老い」を受け止めれてなかったり、
何かしら深層心理にあるんだろうな。と考えるようになったらあまり気にならなくなりました。
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ここ10年の集大成
さてさて、今年も残すところ一ヶ月半です。この時期に今年一番というだけでなく、
ここ10年の集大成と言っても過言ではない仕事ができています。
それはそれでとても嬉しいことですが、
だからと言って今まで通りにやっていて良いということではありません。
問題を先送りにしていることも多々あり、自分の弱さ(怠慢さ)と向き合い、
開き直ることなく、少しでも克服する必要があります。
ここ数年の中では作品を描いた方ではありますが、大した量ではありません。
そしてその作品達を積極的に発表することもしていませんし、
それを仕事に繋げる動きもできていません。
自分が発展途上にあり、まだ時期早々という感覚があり、
だから仕方ないのだと、そこにあぐらをかいていました。
であるとするならば、尚更もっと試すことや、
やるべきことがある筈なのです。
まだまだ自分を高められると信じられていますから、
きっと高められるんだと思います。
buna
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先週末は姪っ子のお宮参りに何も知らずに同行しました。
お宮参りは赤ん坊の健康と長寿を祈る儀式なんですね。
日本人であることを感じましたし、
神社やお寺のあの背中が伸びる緊張感は久しぶりでした。
まっすぐ生きていこう。そんな風にいつも思わせてくれます。
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限界のその先へ
現在制作しているCDとレコードのジャケ、
それぞれ一つずつ、アートワークはあとツメるだけ、
という段階に来ています。この段階に来ると少し寂しささえ感じます。
今回は特に自分が一番好きなレーベルのものだったので、尚更です。
今の自分にこれ以上のものがつくれるだろうか? いや、作らなければと、
少しつま先立ち気味で制作をしています。もどかしいですが、
自分を成長させれる体験になっています。
こういうチャンスでベスト以上のものが出せなければ、
またしばらくは泥水をすすることになります。
そろそろこのへんで一つ結果を出して行かなければいけません。
buna
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会いたい友人はたくさんいますが、その日暮らしの自分にはなかなか、
自分から積極的に声をかけられない状況です。
いつまでこんな生活が続くのだろうと、気が遠くなることもありますが、
自分のやりたいころをやり、生きたい生き方をしているので、
その代償ははらわなければいけません。
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Pub-crawl – はしご酒-
さて制作するぞ。と思っているところに友人から連絡があり、
三軒茶屋まで一時間以上かけて行って来ました。
今年一度も会えていない、忙しい友人なので、
この機会を逃すと今年も会わずに終わってしまいそうだったし、
何よりも話したいことが山積みだったのです。
三軒茶屋は15年前に3年ほど住んでいた街で、
思い出も愛着もあります。今回久々にいってみると新しい店もできていて、
相変わらず魅力的な街でした。
普段、吞み歩くタイプではないのですが、ブラジル料理から始まり、
Tom Waitsが流れる焼き鳥屋経由でシメのラーメン屋まで。
たまにはこう友人野郎数人で酒を吞み、美味しいものを食べるのも良いものです。
某メジャーレーベルでディレクターをしているその友人とは、
自分がまだ19歳の大学生の頃からの付き合いで、
三軒茶屋で部屋をシェアしていたこともあり、良いところも駄目なところも理解していて、
久々に一番年下という環境で、説教されたりからかわれたり、
そんな扱いが新鮮でまた、“ただいま”っていう時間を過ごしました。
buna
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“珍しく”と書かなければならないのが残念な点ですが、
珍しく制作意欲が出ています。この意欲がいつもあったら良いのですが。
これが難しいのです。
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social ladder – 社会的地位について –
芸術家の社会的地位というのは、どれほどのものでしょうね。
基本的に興味はないですが、
最近そんなことを考えさせられる話を数人から耳にしまして。
古代では高かったその地位も、今では一部の芸術家をのぞいて、
社会の底辺に位置されていると考えて良いように思います。
例えそうだとしても、もしくは、だからこそ自分の仕事、
やっていることに誇りを持っていたいものです。
“アーティスト”を名乗る人の中には、
その地位を上げることを意識している人もいます。
どうもその手の人間がそれを意識すると胡散臭く思えてしまいます。
“結果的に”で良いように思うのです。
それよりも、芸術家としてのこの世界での役割を考える方が、
自分は共感できます。
buna