
泥沼を歩くような日々。
前に進んでいるような気はするけれど、
何しろ足元が重い。
いい方向に向かうイメージができない。
ダークサイドに堕ちるなと、
自分に言い聞かせる。
これはマインドゲームなんだと。
心理学では、
あるグループ(国、組織など)の中、
それぞれで光と闇の量は決まっているという説がある。
あなたが光を得るためには、
誰かがその分の闇を引き受けなければならない。
例えば、光を背負う教師の子供に、
問題児が多いのも、この陰陽のバランスから来るらしい。
辛いことがあったら、
これは誰かが幸せになるために、
自分が闇を背負ったと。
そう思ってみたら少しは楽になるのだろうか。
「なんで俺ばかり闇を背負わないといけないんだ!?」
今の僕ならそう叫びたくなる。
buna
–
–
根底にあるアレ
今週の土曜日に誕生日を迎えます。
40代が自分に押し迫っている。正直、そんな焦りが少しあります。
世間の時間の流れとは、違う流れで生きていることは受け止めていますが、
少し隔たりが開き過ぎているような気がするのです。
前に進むスピードは人それぞれ。でも、そろそろそのスピードを上げたく、
思いつく限りのことをやりはじめています。積極的になりきれないのは、
10代の頃から劣等感を心に蓄積してしまっていて、
どうやら負け犬根性が根底にあるようです。
それから解放されるためには自信を持つことが必要で、
それも他者から“認められる”ことで得られる自信、
それが今の自分には必要なんだと思います。
人に認められたい!なんて格好悪い。
これまでそう思ってきましたけど、きっとそれも“認められない。受け止められない”
そんな負け犬根性が影響していたのだと思います。
でも、まずは自分を自分が認めることが先に来た方が、ブレないようには思うのです。
人の評価が先に来ちゃうと、流行廃りのあるこの世の中、
いつも周りの評価に振り回されることになっちゃいそうですし。
ただ、本当に自分を信じたり、認めるには、自己からと他者からの両面からの
承認が必要なのかもしれません。
というわけで、40代に向けて、モテるようにがんばります(嘘)
buna
–
–
どこも人で込み合っているので、出かけないのがいつもの自分のGWの過ごし方です。
そんな自分ですが、今年は鎌倉と江ノ島へ。コースを考えればいつもの静かな鎌倉を
楽しめることがわかり、GWに行くところがなければ鎌倉も悪くないです。
気がついてみれば4、5年前にもGWに鎌倉に行ったのですが、
そのときも人混みを気にした記憶はありません。
–
–
強度のある時間を
熱く語ることや、“重い話”が避けられがちだと、
それは10代の頃から薄々感じてたことでした。
最近読んだ『日本の難点』宮台真司著によると、
社会学的にもそういう時代の風潮が語れており、
本気で人に話し、本気でその話しを聞く機会が減ったということです。
これは社会の変化や日常のスピードや忙しさも関係していて、
人とそこまで濃密な時間を過ごせないし、過ごす心の余裕もないのだと思います。
なので、気が重くなったり疲れる背を向けたくなる会話よりも、
浅く広く、氷面をすべるように浅い会話を求めて次々と乗り換える。
流行のフレーズや服装をみにつけて、SNSで繋がって“仲間”、“みんな一緒”と感じて、
強度のない会話をするスキルだけが磨かれ、
なんとなく楽しい時間を過ごす。
そんな人が増えたてきたのかもしれません。
本気で人の話を聞かなくなるということは、
自分の話も本気で聞いてもらえないという悪循環になります。
これは家族や地域でもそうで、人間関係の軽薄化に拍車をかけ、
コミュニティがバラバラに断絶、
または乾いた空気の流れる距離ができるのではないでしょうか。
実際、誰かに相談することができたらば、こんなことにはならなかっただろう、
そう感じる悲しい、淋しい事件が世の中にはたくさんあります。
でも、一方自分は軽い会話に対しての忍耐力がないので、
それはそれで問題です(苦笑)
buna
–
–
先々週、叔父の13回忌を行うのをうっかり忘れていたことが急遽判明しました。
なので今日近所の寺で14回忌(そんなものはありません)をやり、
滅多に着ることのないスーツはもうコスプレな気分でした。
–
–
意識と心について
「意識」と「心」はそれぞれ違うところに根ざし、別の人格を持っているかのようです。
いくら「心」に言い聞かせても、聞く耳を持たずにあぐらをかいている。
頭ではわかっているのに、どうもやる気が・・・。みたいなことです。
こういう場合、もうただ根気よく「心」を見守るしかないのでしょうかね。
時間が解決する。そう思ってただただ“お前ってやつは”と嘆くとか。
で、関心は「意識や心」とはどうなっているんだ?。というところに行き着くわけです。
ちょっと難しい話になりますが、無謀にも心理学の世界に突入します。
どうやら意識にはいくつかの層があるようです。
例えば、夜中に“ラーメンが食べたい”と意識する顕在(けんざい)意識と呼ばれる層。
そして“やめとけ太るぞ”ともうひとりの自分が言うとします。このもうひとりの自分というのは、
「潜在意識」と呼ばれる層で、これは経験や知識で働くそうです。
なので、多くの体験と知識を積むことで、
ある程度自分に正しい思考をさせることができるようになります。
そして更にもう1つ深い層があり、それは「無意識」と呼ばれる層で、
例え夜中にお腹が空いても食べたいとも思わない。場合でしょうか。
過去に夜食で痛い目にあったなどの、忘れてしまいたい記憶や感情、
トラウマ的なものと「個人の経験の領域を超えた人類に共通の領域」が働くそうです。
意識の層の中でもこの層が90%をしめているうえに、
かなり深いところにあり簡単にアクセスできません。
これが潜在意識や顕在意識にも影響するので、この層が心の癖になって、
同じような状況をつくったり、失敗を繰り返させたりするわけです。
なのでカウンセラーなどは人のここにアクセスをし、
その人が人生につまづいている理由をさぐります。
そして興味深いのが、この無意識というのはトラウマだけではなく、
色々な答えや閃きや才能が眠っているらしいです。
なので、ここへのアクセスの方法は知っていた方が得ですね。
自分の場合は、太陽の下、自然の中をウォーキングをしたり、絵を描いたり、
自分と向き合い、問題や課題をみつけてとことん考え、悩みます。
何も考えなくなるまで考えます。そうすると直感のようなものが冴えてきます。
これが今日学んだことです。
さて自分が抱えている無意識層にある、いつも同じ失敗を繰り返したり、
抜け出せない状況の原因を探ってみたいと思います。
buna
year:2014 近所にて
–
–
昨日はエイプリルフールで、まぁ、イベントだし何か嘘をついてみようと考えましたが、
面倒で諦めました。日頃からそんな感じで、嘘をつくと疲れるので、極力正直に生きています。
でも、人をからかったりふざけるときには、想像力を極限まで使って大嘘をついて
面倒くさがられてはいます。
–
–
信じれるのは
信用できる。とはどういうことでしょうね。
逆説的に信用出来ない人とはどんな人かを考えてみます。
例えば、嘘をつく。本音を言わない。
自分の言動に責任を持たない、持てない。嘘でないにしても言っていることが
コロコロ変わる。盗みを働く人とか。
すぐに思い浮かぶのはそんなところです。
ということは、嘘をつかず本音、または心を開いてくれ、
言動に責任を持ち、盗みをしない人が信用できる人ということかもしれません。
これは、国や会社、コミュニティなどに置き換えることもできます。
どれだけ信用できるモノが周りにあるでしょうね。
少なくとも信用できる人間でありたいですよ。
buna
–
–
この国はどうなってしまうのでしょうね。
国民の声に耳を傾けていないとしか思えない政治家ばかりです。
民主主義が機能していないことは、ちょっと考えればわかりますね。
どの政党に投票するか、今回は本当に難しいです。
–
–
この約一週間、会った人との会話の内容に共通していることがあります。
それは“拘り(こだわり)”についてです。拘りを持つことは良いこととされていますが、
実際はそれを持つことで可能性を低くしてしまって、行き詰まっている人が少なくないようです。
もちろん、自分にもそういう点があると思います。
例えば、極端な例ですが、法律を絶対守る。という拘りをもっている人が、
信号無視をしたら人を救えるという状況で、法律を守っていたら
救える命も救えない。そんなこともあります。
時と場合によって、柔軟に拘りを捨てて、対応できるようになりたいです。
そして、行き詰まりを感じたら、
その拘りが誰かのためになっているか。どうか。
ただの自己満足、甘え。逃避ではないか? という観点を持つことが、
そこから抜け出す上で大事なようです。
buna